株式会社落雷抑制システムズ

雷ブログ

青年よ大志を抱け  ポイントなどにかまけるな

平成31年 4月26日
こんにちは。 落雷抑制の松本です。

 昨日の続きのような内容です。 人様の公序良俗に反しない行為について私如きがとやかく言う資格はない事は重々承知しながら、これは私自身への戒めと、私の息子までなら許されると思っての発言ですが、最近、ポイント、イントとポイント集めに踊らされているような雰囲気を感じます。 「1銭を笑うものは1銭に泣く」という諺の如く、細かな単位も大切であり、小さなポイントなど重要ではないとは言いませんが、これは人それぞれで、良いのですが、若い男性がチマチマとポイントやクーポンなどに夢中になる前に「青年よ大志を抱け!」、身の回りの小さな損得でなく、もう少し視点を高く上げて目標を掲げそれに邁進してもらいたいものです。

このポイント、いつしか公による救済処置にまで使われ、市民権を得てしまったようですが、リターンの率は小さくても確実で分かりやすいポイントというのが万人受けするのは確かです。 しかしながら、こういう小技(戦術)に埋没し満足すると、大きな戦略を忘れがちです。 ポイント集めなどに夢中になる時間があれば、その精神エネルギーは古典を読むとか、将来の自分を考えるとか、身の回りの細かな所に浪費せずに活用していただきたい。 世の中には、低俗な事にしか楽しみを見いだせない人もいることでしょうが、若い方達には大きな可能性を秘めた未来があるのですから、それを開花させることにエネルギーを注入すべきなのです。 万人の真似などしなくてよいのです。 世の流行事には背を向けていても良いのです。

そのためには、身の回りで一番世俗的な「ポイント」などにかまけることなく、先を見据えて行動してほしいものです。 歳を取っての数少ないメリットは、激変する将来を過ごす時間が若い方より短い事です。私の過去50年の変化率よりもはるかに大きな変化率がこの先、50年にはあることでしょう。 若い方々には、その難局に立ち向かう事に対し「ご苦労様!」と言わせていただきます。 若い方々にはポイントやスマホなどにかまける余裕など本当は無いのです。

ポイント/マイレージ

平成31年 4月25日
こんにちは。 落雷抑制の松本です。

 若い女性や家庭の主婦などがコツコツとポイントを貯めているのは微笑ましいと思いますが、私のようなジジイがポイントなどに執着するのはしみったれた事と思い、ポイントやマイレージなどには執着しないことにしています。 コンビニやスーパーで支払いの際にポイント・カードについてイチイチ問われるのは迷惑なことです。 ですから、航空会社から送信されるマイレージバンクについての連絡も中身など見ずにそのままゴミ箱行きなのですが、昨日はタマタマ、その中身を読んでビックリでした。

 「生涯フライト記録」なる記録が1999年1月から今月までのJALに乗った記録が残されているのです。 それによると、国内線152回、国際線57回で281,475マイル。 地球約11.3周、月まで約0.6往復、搭乗時間約750時間とのことです。 ANAとJAlは、ほぼ半々に乗っていますが、このような記録が残るならどちらか一方を利用した方が記録は一元化して見えて便利なことでしょう。

 20年前の搭乗記録など、今更、詳細には思い出すこともできませんが、この時期にこんな所に行ったのだ。。という感慨だけは残ります。 ここで貯めたポイントも全て使うことなく失効していますが、このようなポイントで客を釣るとはうまい事を考えたものです。 仕事の出張での移動ですから、ポイントの有無に関わらず利用せねばならず、マイレージ・ポイントの有無など便を決める時には何の価値もなく、私のような変人には、このような子供だましは何の効果もありませんが、ポイントを貯めるというのはずいぶんと普及したものです。

他不是吾  他これ我にあらず  自分でやるから意味がある

平成31年 4月23日
こんにちは。 落雷抑制の松本です。

 「フーテンの寅さん」、お気楽な生活をしている様に見えても、時に深遠な事を言います。「お前と俺は別の人間に決まっているじゃないか。 俺が芋を食ったからと言って、お前が屁をするか?」と言ったような分かりやすいセリフで個人の独立や他人への過度の期待や依存を戒めています。

これはもっと昔の道元禅師のころ、腰の曲がった老人が一生懸命働いているのを見て、そのような仕事は部下にやらせれば良いのでは? と言ったところ、この「他これ我にあらず」との答えが返ってきたそうです。 自分の仕事は自分でするからこそ意味があり、自分でしなければ意味がない。 との意味です。 この方にとっては、仕事自体が修行のようなもので、仕事(修行)は自分でするからこそ意味があるのです。

 「仕事の丸投げ」を得意技とする方には耳の痛い話ですが、この方、恐らく丸投げされた仕事であっても「やらされている」とは思わずに、常に人生の主体は自分自身ににあり、「人にやらされている」のではなく「自分自身でやっている」と考える方がストレスが無いのです。 自分でできるのに、人任せにして丸投げするのは、人生経験の一つを放棄する事であり、もったいない事である。面倒で自分で何もしないより、失敗しても、生きているという実感は自分で何かをすることから見いだせると、非常にポジティブな生き方です。

 自分を第一に押し出してきても、決して自分勝手にはみえず、人生の出来事を楽しむ。 こんな風に物事に接することができたら人生に「苦」などなくなり、全てを楽しむことができます。こんな短い4つの漢字の組合せの中にそのような深遠な教えが入っていることに言葉の凄さを感じます。 文字を使いこなすというのはスゴイ事です。

白雲抱幽石 ハクウンゆうせきをいだく  孤独の何が悪いのか?

平成31年 4月22日
こんにちは。 落雷抑制の松本です。

この言葉、中国の唐の時代にも世俗との関わりを断って、一人静かに隠遁生活をする心境と深山の風情を示したそうです。 TVもスマホもない時代ですから世間との関わりや他人との交流も現在よりはかなり限定的であったであろう時代にも、自分や自分の人生を見つめて好んで孤独な状況に身を置くことに価値を見出す人もいました。 人間は時に独りの時間を過ごす機会を持つべきであると示唆しています。 食事で言えばたまの断食のようなものでしょうか? ずーっと断食していては死んでしまいますから、日常の食生活の中での限定的な断食に相当すると考えた方がよいのでしょうか。

 現代の社会では、孤独でいることは悪い事のように考えられ、人と積極的な関係を持たないと変人扱いされかねません。世間から「孤立」はしていないが「孤独」を好むという方と 一日中、友人とLINEでつながっていないと不安になる、という方とは対極にいるように思えますが、「他人依存」の強い「LINE中毒」よりは、孤独を好む方が健全ではないかと思っていましたが、「孤独」と「孤立」の線引きをキチンとしてもらいたいものであると思ったのが、

 「超孤独死社会」  菅野久美子 毎日新聞出版  です。 

 人間、生まれてくる時は母親との共同作業ですが、死ぬときは、看取られても、看取られなくても一人、「孤独死」です。 本書は、特殊なことが起きた現場を清掃する人の体験記で、まあ、色々な現場があり、例えば、ゴミ屋敷、ネコ屋敷。火事現場などを清掃する、普通の生活ではあまり関わらない状況ばかりなのですが、この中で増えているのが「孤独死」 とあるのですが、私は、これは「孤独死」ではなく「孤立死」と呼んでいただきたいと思いました。 「孤独」とは、単に一人きりの状態で、これは分を見つめるためには必要な時間です。 それが、継続的になり、家族/友人/親戚/友人/近隣の方などとの関係性もなくなった状態は「孤立」であり、文字は似ていますが、内容は異なります。 それが「孤独死」により「孤独」がいけない事のように思われるとると、他人依存の集団主義から脱皮できなくなります。 孤独は、社会生活をうまく泳いでいるように見える方でも、時にそれを感じることはあり、人間はそれに耐えて生きています。それは必ずしも悪い事ではないのです。 「孤立」と「孤独」が混用されない社会であってほしいと思います。

5G 狂想曲  美味しい話にご用心

平成31年 4月18日
こんにちは。 落雷抑制の松本です。

 最近、5Gへの期待が高まり、全ての分野で革命的な変化が起きると大きな期待が寄せられていますが、美味しい話にはご用心。そのような美味しい話ばかりってあり得ますか? 世の中、常に「光と影」が存在し、美味しい話ばかりのときには、「本当か?」と一歩、下がってみるべきです。 最近、「それ見た事か」と思った次の日には、復活して状況が変化していることもあり、将来予測などしない方が安全なのですが、5G騒ぎのあまりの騒がしさにより、少しも報道されない観点を紹介します。

 高速通信、大量のデータを短時間で送り届けるためには、そこで使用される電波の周波数を高くせねばなりません。そのような周波数の高い電波は障害物を回り込むことが無いですし、減衰も大きいので、アンテナの数を多くしなければなりません。 感覚的な表現で申し訳ありませんが、街中が周波数の高い電波により「電磁波汚染」されるのです。 いわば、街全体が大きな電子レンジのような状態になるのです。それは、現在のスマホの数十倍になります。 人類は過去の歴史でもこのような電磁波被爆に曝されたことはなく、どのような影響がるのかも分からない無謀な試みが始まるのです。

TVのスポンサーの一番の大口客は携帯電話会社ですから、そのような不安材料が報道されることはあり得ません。 ですから、報道がないことは全く心配がない事ではないのです。 昔、微弱な光を捉えるため天文台が当時は人口の少なかった三鷹に移転しましたが、今や三鷹は光豊かな市街地になってしまいました。 電波天文台も地上の電波雑音の少ない山梨の山の中に移転しましたが、ここにも携帯電話を持った観光客が訪れ、不要な電波雑音に曝されています。 今度は、日本中に現在の携帯の数十倍のアンテナが林立することになるのです。 生態系に何の影響もなければ良いのですが。。 そのような影の部分には目を閉じ、光の部分のみの美味しい話ばかりが聞こえてくるのが不気味です。

この分野での参考になるのは、「生体と電磁波」 吉本猛夫 CQ出版 がありますが、「あとがき」の中に「さて、本書をお読みになった方からは「あんたは一体どう考えているんだ? 電磁波な健康にいいのか悪いのか?」と声を荒げた質問が聞こえそうな気がします」と書かれています。 吉本先生も断定的なことは何一つ言いませんので、読者の感想を予め理解されておられます。この問題、非常に影響力が大きく、デリケートな問題なので専門家も立場を明確にし難いのです。

悟無好悪(さとればこうおなし)  先入観とサヨナラする難しさ

平成31年 4月17日
こんにちは。 落雷抑制の松本です。

 今日も、禅の言葉で心に留まったものを紹介します。 漢文ですから、読み順は、基本は上から下(左から右)ですが、途中でレ点で順番が変わりますが、今日のは、4文字ですから、眺めるだけで意味は通じます。

 物事を判断する時に、世間での評判(他人の意見)、先入観(自分自身の色眼鏡)、自分自身の価値観などを通じて判断します。これは当然の事であって、この複雑怪奇な社会を渡る時に純真無垢で相手の言うことをそのまま信じてはかえって危険です。 その自分の価値観と偏狭な先入観との差がどこにあるのか? これは自分自身の判断の材料、価値観の基準を常に広げるように心がけていなければなりません。 一方的に信じる前に刑事ドラマにあるように「裏を取る」。その発言の真偽を確認し、反対側の意見がどのようなものかに気を配ることも必要です。

 欧米人と対峙する時、彼らはキャラが強い方が多いですから、そのキャラの強さに屈し、押されがちになります。 また、日本人同士であっても「個性の尊重」などと言わる中で、押しの強さだけを売りにするような方も時折お会いします。 禅の言葉で先入観を持たないで子供のような素直さで物事を判断せよと言われると、そのバランスをどこで取るのかの難しさを感じます。 人が成長するということは、見分を広め、物事の理解を深めることですが、それが凝り固まってしまえば、吸収力も落ちます。 逆に吸収力ばかりで百科事典的に色々な事実を理解していても、「お前の意見は何なんだ?」と問われた時に複雑な事情を知り過ぎるが故に何も言えないのでは、これは役に立ちません。

まあ、凡人としてできる事は、「なるべく」柔軟な心を持てるように努力するということで、断定的な答えが出ません。 そこが凡人たる所以でもあります。

喫茶喫飯(きっさきっぱん) 多重人格の勧め

平成31年 4月16日
こんにちは。  落雷抑制の松本です。

たまの日曜の朝、近所のフルーツサンドの美味しいお店に行きます。 日曜日のブランチにのどかな時間が流れているのですが、残念なことはスタッフの皆さんの表情が暗いのです。 ホールのスタッフは、若い娘さんが多いので、笑顔であれば、それだけでお店が華やぐのですが、「なんで私が日曜日に働かなくてはいけないの?」というような意識でもあるのか、表情が沈んでいるのです。 ハッピーな方に給仕されれば、こちらの心もハッピーななりますが、無表情にブッスと運ばれてくると美味しさも半減します。

 遊びは楽しく、仕事は苦しい。 これは間違いです。 どんな仕事であっても一生懸命に集中すると楽しいものです。 「喫茶喫飯」とは禅の教えで、茶を喫する時には茶になりきり、飯を喫する時には飯になりきる。「喫する」とは、人生そのものを示し、その瞬間、その瞬間、相対するものになりきることだそうで、ホール・スタッフという仕事になりきってしまうことが肝要なのです。それは、単に食べ物を運ぶだけでなく、お客様に幸せな気分も一緒に運ぶ仕事なのです。

そういう躾が機能しているのは米国系に多いのです。ディズニーランドを筆頭にマクドナルド、スターバックス。 皆、スタッフの方が明るくディズニーランドなど、掃除の方まで掃除自体をエンタメにしてしまっているのは見事です。 これは接客業だけでなく、普通の会社員でも同じことで、実名と別に仕事場での「源氏名」を付けて、職場ではその役に徹しきれとしている会社もあります。 その源氏名は、自分の仕事を象徴するような名前を付けています。 例えば私でしたら、「落雷ヤダヨ」のような名前で名刺を作り、会社でも客先でも本名ではなく、「落雷ヤダヨ」という名前で通しているのです。

 一日中、地の自分だけでなく、役を演じているもう一人の自分と割り切って、その時々の枠割を演じる。 そういう心の余裕も必要です。 自分も役を演じている俳優と思えば、辛い事でもその役の上でのことなのです。 役を終えた「地の自分」には関係ないことと思えば、辛い事も一時の事となり、辛さに飲み込まれることはありません。「地の自分」のほか、何人分の人になりきれるか、これは「地の自分」を客観視するためにも必要なことです。

忠臣蔵/憲法第9条第2項/北朝鮮による拉致被害者

平成31年 4月15日
こんにちは。  落雷抑制の松本です。

この3つの項目など何の関連も無いだろうに「何だろう?」と思われた方、実は、底辺に慣れているものに共通項があります。

 「忠臣蔵」ですが、いくらイジメを受けようと、キレてはいけないのです。 キレたら負けです。イジメなど世間のどこにでもある話で、イジメに耐えかねて刃傷事件を起こした方が悪いのです。 その判決に不服であると言って、事もあろうに加害者一族でありながら被害者に対し復讐するなど八つ当たりもいい加減にしろと言う内容です。 判決は自分の殿様だけが責を負い、喧嘩両成敗に反するというなら、判決を下した幕府に文句を言うべきであって、事件の当事者同士で片を付けるのではなく、国の中では裁判の判決に従うのが原則なのです。

それが、ここまで歪められたのは「忠心」という、殿のためには私をなげうって忠誠を誓うという部分だけにスポットライトを当てて利用されたからです。 完璧ではなくても、一応、法治国家なのですから私的な制裁は許されず、市民を国が護る代わりに市民が勝手に制裁を加えないというのが基本です。 その原則を忘れて未だに赤穂浪士を褒め称えるというのは、法治国家の基本が全く理解されていないのです。 善悪の区別のつかない人がこんなにも多くいるのです。 「理屈」よりは、仇討ちを成就するまでの苦労という「情」に流される方が多いのです。

 同様に、憲法第9条の第二項についても、自衛隊という軍隊の存在と相反する規定は削除すべきであるのに、これを「平和憲法は変えるな」などというオツムの程度は忠臣蔵の支持者と同じ程度なのです。 安倍首相まで弱気になって第2項に自衛隊の明記をするなどと見苦しい変更で逃げようとしています。 自衛隊の貢献度は疑いの余地のないもので、これをキチンと機能させるための法整備が必要なのです。 それを今まで平和であったという「情」に流されて国際情勢を顧みないで「平和、平和」と叫んでいれば平和が続くという訳ではないのです。

まあ、北朝鮮に拉致されたことが分かっていながら、何もできない/しない国は、国民を守るという基本を守っていないのがこの国の現状ですから、時代を経ても「法治国家」であると自慢できたものでもないのですが。。。このような国で、よく恥ずかしげもなく、法務大臣、国家公安委員長、警察庁長官、防衛大臣などの役職をしていると思いますが、悪いのは政治家の前にアホな国民なのです。 まあ、忠臣蔵の善悪の区別がつかない程度ですから、憲法第九条の何がいけないかも判断できないのでしょう。 これを「平和憲法」などと崇め奉っている間は拉致被害者には何の手も差し伸べられないのです。 そうしているうちに拉致被害者の御両親も高齢となられ、全くお気の毒です。

 世の中には話をしても分からない相手はいるのです。「話し合いでの解決」を何もしない事の言い訳にしている、「平和」という言葉の陰に隠れて現実から逃避している。 国民を守らない国など国ではないのです。 日本はまともな「国」なのでしょうか? まあ、それを嘆く前に国民のレベルが国の姿勢を決めるのです。

渋沢栄一  新一万円札に期待して再掲載

平成31年 4月12日
こんにちは。  落雷抑制の松本です。

 昨年11月に掲載したものですが、新しい1万円札に渋沢栄一が選ばれたとのことで、渋沢さんについて書いたものをもう一度掲載します。でも、5年も先の話、発表が早過ぎるというか、実施が遅すぎるというか、早く新一万円札を見てみたいものです。

 先日、あるセミナーに参加しました。 プライベート・カンパニーの話しで、会社員であっても社長であっても自分自身の会社を作り、そこに資産を移動して財を蓄えよという内容でした。 株主の大勢いる株式会社であれば、社長と言えども会社のお金は簡単には使用できません。 それで、自分だけの会社であれば、そこは自由になるので、勤務中の会社から自分自身の会社に合法的に資金を移すと税金の面で有利になるというような話でした。

ここでの講師の方、「お金儲け」に抵抗があったのは、渋沢栄一さんの次の言葉であったそうです。

 金を残すは  下
 事業を残すは 中
 人を残すは  上

 人生、お金だけが目的ではありません。 武士の時代から資本主義まで経験された渋沢栄一さんは、立派な事業、人材、言葉も沢山残され、渋沢さんを紹介する一つ「論語と算盤」は必読の書です。 この渋沢栄一さんの言葉に引っ掛かり、「金儲け」だけの話をするのは抵抗があったそうです。 しかし、この言葉に続く残りの言葉があり、それに救われて堂々と「金儲け」の話を人前でする自信が付いたそうです。 そのお言葉、現代語で書くと

「しかしながら、お金が無ければ事業はできす、事業を成立させなければ人材も育成できない」

お金が全てではないが、お金の大事さは否定できません。  この渋沢栄一(呼び捨てでは申し訳ないお方です)、明治の初期、諸外国に遅れていた日本に産業をおこし、資本主義の先頭を走りながら、日本の伝統を忘れず、今でも十分に日本流の資本主義について誇れることを実践してきました。 外国の経済学などを勉強する前に、この方の偉業を学ぶべきです。

いま日本人に読ませたい 「戦前の教科書」  日下公人  祥伝社文庫

平成31年 4月11日
こんにちは。  落雷抑制の松本です。

 文庫本の小さな中に面白い話題がいっぱい詰まっています。 その中の一つを紹介します。

 戦前の事を賛歌すると誤解を受けやすいので、戦前よりもっと古い話で江戸時代。 寺子屋により庶民の教育程度も高かったそうで、現在は、九九といえば掛け算の九九しか思い浮かびませんが、江戸時代にはナント、割算の九九まで覚えたそうです。 例えば、2÷2=1は「2進の一十」音便化すると「にっちんのイチジュウ」と読んだそうで、この「進」という文字が割算のようで、「2進も3進もいかない」(にっちもさっちもいかない)というのは2でも、3でも割り切れいないという事で、現在では「どうにも進まない膠着状態」のことを言いますが、元は割算の話であったとは! 「読み書きソロバン」と科目は絞られていましたが、「読解力、表現力、計数感覚」の一番の基本を押さえていました。

 江戸から明治になり、世の中は様変わりしましたが、日本が急速に世界に追いついたのも国民一人一人のレベルの高さ、それを支えてきたのが教育であったのです。 日下さんは、日本を元気づける種類の本を多数書かれていまして、今後も頑張っていただきたい方の一人です。

日本人、サムライ、武士道 ???

平成31年 4月10日
こんにちは。  落雷抑制の松本です。

 野球の日本代表チームに「サムライJAPAN]があったり、新大関の貴景勝も「武士道精神に則り」と口上を述べていましたが、日本人だからと言ってサムライ精神があるとか、武士道精神を理解しているかと言えば、本当にそうでしょうか? もちろん、日本社会には、それらしきものを受け入れる下地はあり、明治から戦前まではそのような教育が行われましたが、戦後の教育の中からは、それらは取り除かれてしまいました。 戦前の事情をご存知の例えば、台湾の李登輝さんは、日本の現在の「変容」「落ち込み」「堕落」を惜しんだ著作を多数残しています。 戦前をご存知の方からすれば、現在の日本にサムライ精神、武士道など、言葉だけは残っていますが実体は無いに等しいのです。

 我々のご先祖様の割合いからしても、「士」階級は少数派(当時の人口は約3000万人。武士の人口は約200万人)で、ほとんどは「農民」階級の子孫です。そもそも農民階級の大多数が各家庭の伝統として武士道精神などを伝承している訳はありませんので、これは日本の文化として教育の中で伝えていかねばならないものです。 その手段としては「葉隠」であるとか、新渡戸稲造の「武士道」であるとか、手本は多数あります。 これを自ら、積極的に学ばねば生まれながらにして自然に武士道精神やサムライ精神など得られるものではありません。 にもかかわらず、「サムライ日本」というイメージだけが先行し、日本人であればサムライ精神を身に付けていると思うのは大いなる勘違いで、これは自分自身で自覚しなければ、そのような振る舞いはできません。

 大げさに武士道精神だなどと言わなくても、「恥ずかしいことはしない」という程度の基本的なことさえ目先の利益に惑わされて平気でする人は大勢います。 それを皆がやっていることだから自分もしなければ損である、というような低俗な考えではなく、損をしてでも「ならぬことはならぬ」と自らを律することですが、その範を見せるべきは我々ジジイ世代です。 若い世代に文句を言う前にジジイ世代こそミットモナイことはしない。 老い先の短いジジイこそ、「晩節を汚す」事のないように気を付けたいものです。

学問のすすめ  福沢諭吉

平成31年 4月 9日
こんにちは。  落雷抑制の松本です。

 140年も前に書かれたのですが、時代は変わっても中身のある言葉はいつまでも廃れることはありません。 社会は大きく変貌しましたが、社会を構成する人間自体はたいして変化していないのです。「学問のすすめ」は、明治初期の激動の時代に書かれましたが、その中で一番好きなのは次の言葉です。

 「未だ試みずしてその成否を疑うものは、これを勇者と呼ばず」 物事をネガティブにとらえ、新しい事をする前から「リスクが大きいから辞めておこう」などというのは、勇気がない。。 

この時代、現在よりは遥かに激動の時代です。幕府から新政府に変わったものの新政府は何をするのも初めての素人集団ですし、身分制度が廃止されてもその影響も残り、かつ、国際情勢も国家が弱体であれば列強国の植民地になってしまう。国民の民度もそれほど高くは無く、産業も始まったばかりで競争力は無く、大変な時代でした。

そんな中で当時ベストセラーになった「学問のすすめ」は、ネアカに国民を励ましたのです。 この中のお言葉、いまでも全くその通りなのです。 それどころか、道徳についての教えが世代間で伝承し難くなっている現在、人間の生き方について指針となるようなものを親も、そして学校教育の中でも子供に教えにくくなっている、というより、未発達のまま親になってしまい、子供のような親が増えている中で己を正すのには、古典的な良書を利用するのが一番なのです。

 福沢諭吉の世界観は、自分自身の身の周りだけでなく後世のために働くということで、それが、先人の遺産をもらった我々の後世への義務へと続くと大きなものです。 この考えに支えられ、私も「エンジニアの使命は社会課題の解決」と大ミエを切っています。 人のために何かをするというのは大事業でなくても、身の回り事であれな何でももいいのです。 この題名は、学問を習得して学者になる事を勧めているのではなく一般国民への励ましなのです。

 慶応大学には縁もゆかりもないのですが、福沢諭吉さんの名著は日本の宝であり、これを読まないのはモッタイナイことなのです。

屋上のクレーンの撤去

平成31年 4月 8日
こんにちは。  落雷抑制の松本です。

 弊社の真向かいの高層ビルの工事現場の屋上です。 ほぼ完成に近づき、クレーンは不要となりました。 3基あったクレーンのうち1基は、知らない間に撤去され残り2基の撤去はどうしても見たいと思ていましたら、金曜の朝、始まりました。 1基のクレーンが隣のクレーンのブームに玉掛けし、接合部を解いてブームを二つに分けました。 このクレーンの先端部部は、とりあえず、屋上に置かれました。
日曜日の朝には、綺麗に撤去されていてクレーンは1基のみとなりました ここまではは分かりやすいのですが、最後に残った1基をどのように分解して地上に下ろすのか、まだまだ興味が尽きません。 建設や土木の現場は面白い事であふれています。

国民の皆が祝った新元号

平成31年 4月 5日
こんにちは。  落雷抑制の松本です。

 新元号を多くの国民が祝ったのは嬉しいことです。一部の左巻きリベラリストは、天皇制を単純に戦争に結び付け、多くの新聞では新聞での扱いも西暦を優先させ、「平成」という元号で年代を表示する新聞も産経新聞くらいなもので、朝日も毎日も読売も軽率にも西暦一辺倒の表示にしてしまいました。 西暦の意味は、西洋の特定宗教に起因していて、その信者様がお使いになるのはご自由ですが、それ以外の宗教に何の関わりの無いその他大勢までもが、この西暦を使用するのは実におかしなことなのです。 もちろん、外国ではこれが主流ですから、外国と交流のある方は標準化された西暦を使用すべきですが、日本には日本独自のスケール、紀元、皇紀があり、元号を使うなら皇紀も共に使うべきなのです。

 皇紀が廃止されたのは、戦前のものが全て「悪」とされた戦後からで、それ以前は、西暦、皇紀、元号の3種類があっても上手に使い分けていたのです。 日本の歴史の中では常に天皇がおられたわけで、これを後々の世代にまで継承していくのは日本の文化を護ることで、大切なことです。経済圏の統合、人の往来の自由、文化の融合、そういったグローバル時代は本当は間違いであり、米国の黒人による公民権運動から最近のブレグジットからニュージランドでの銃乱射事件まで、経済最優先で安い労働力として迎え入れた移民、難民の数が増え、在来種の文化との摩擦によるトラブルです。

 地理的に不平等である経済性を調整する関税までもが撤廃され、自由のみが大手を振るのは、それを主張できる強者のみで、その陰で泣かされる弱者が必ず存在します。外国との標準を叫ぶ強者の前に自国の文化を大事にしたい少数派は弱者なのです。 子供に英語を習わせたりする前に、日本の国語に時間を費やすべきなのです。 海外との商売は英語でするのは普通で、それは私もしてきました。しかし、全社を挙げて社内で英語を標準語にするなどアホの極みといえます。 私はそのような会社の製品は買いません。自ら英語という外国語の文化的奴隷になり下がっているのです。

しかし、今回の新元号で、外国との標準を第一と考える西暦派に対し、日本国民の大多数は新元号を祝う立場であることが分かり非常に良い結果になりました。 これを機会に日本のものを大事にすることにも目覚めて欲しいいものです。 この皇紀とは神武天皇から数えて現在は皇紀2679年。 西洋の神様がお生まれになってからの2019年よりも長い、立派な歴史があるのです。 これが戦後、戦勝国により、過去の文化まで葬られてしまったのです。 「昭和」「平成」「令和」というその時々の天皇の元号だけでなく、神武天皇以来の「皇紀」という存在を戦前に使用していたからと言って、それを直ぐに戦前の軍国主義に結び付けるのが「超短絡」のアホなのです。 大東亜戦争が始まる2600年以上も前から「皇紀」は存在しましたし、「皇紀」は「元号」の積み重ねなのです。「皇紀」がダメというならなぜ、「平成」や「令和」なら良いのでしょう? これらすべてが日本の文化であるのです。 どの一つも悪いものなどありません。 日本人は日本の歴史に誇りを持って「皇紀」と「元号」を同時に使用すべきなのです。

日本を「時代遅れ」にしている、入学式や入社式という悪習慣  by 冷泉彰彦

平成31年 4月 4日
こんにちは。  落雷抑制の松本です。

 米国在住の冷泉さんから見た日本の「入学式」「入社式」は、いかにも全体主義的で悪しき習慣に見えるようです。 一部の御指摘は全く同感ですが、文化の違いを片方からだけ眺めて悪習慣と言い切るのはいささか言い過ぎでは。。とも思います。 しかし海外から見ると、こういう見方もあるのです。

 同感できる部分は、入学式の「来賓」。地元の政治家。教育委員会とかPTA会長とか、本来は縁の下の力持ちであるべきで、偉そうに胸に飾りなどを付けて上から目線での挨拶、それも型通りの挨拶だけで、中身のない挨拶をするのですが、あの形式は打ち破るべきかもしれません。 八つ当たりですが、「PTA」などというのもおかしな言葉です。戦後、米国から憲法のみならず、周辺の法律から学校教育の仕組みまで米国直輸入であった「生きた化石」の証拠品です。 Parents Teachers Association そんな日本語はありませんでしたから米国流そのまま「PTA」という言葉で定着しました。 せめて「保護者会」位の日本語にすべきを「 PTA」 ですから、戦後に制定された憲法から関連の法律までが米国製であることの証のようなものです。

しかし、桜の花の下で行われる入学式は、我が子の成長を祝うには絶好の背景です。 ここれまで諸外国に遠慮して9月にしろというのは大きなお世話。 入社式、これは大勢が非正規雇用で随時、入社する中で一部の選ばれた若者だけが全員揃った入社式。 入社式というのも日本の会社の独自の文化で、だからおかしいというのではなく、これは極めて恵まれた一部の若者だけの特権のようなもので、この入社式に臨めるか否か、既に競争社会が開始している訳で、面白くない方々も大勢おられるのですが、これは現実の一部で仕方ない事です。 外国から見ると、日本の習慣には奇異なものもあるでしょうが、それも「日本」です。 これをどのように変化させるかは、当事者として国内に居住する日本人が決めるべきで、外国からの御意見は単なる「参考意見」で、長年続く日本の伝統を外野からのノイズで変更することはありません。
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